桐山組株式会社桐山組

桐山組の歩み

BASIS 私たちの礎

地元・岡崎に根ざし
発展を支える桐山組の歩み

戦前から戦後まで
激動の社会インフラを
支えた初代・喜之助。

桐山組の創業者である桐山喜之助は、名古屋高等工業学校(現・名古屋工業大学)で土木を学び、愛知県建築部に就職。土木技術者として、愛知県全域の道路、橋、河川等の工事に携わった。その後、昭和10(1935)年に設立された南洋拓殖株式会社に入り、パラオ諸島コロール島で、国策である拓殖事業に従事したが、第二次世界大戦が始まり、会社は閉鎖。終戦を迎える。
1930年喜之介
技術者時代に暮らしていた縁もあり、岡崎で第二の人生が始まった。戦後日本の復興のため、人々が必要としたのは、まずインフラの整備。新しい時代を待ち望む声を受け、喜之助は、再び立ち上がった。これが「桐山組」のはじまりである。屋号紋は「㐂」。父・喜六、そして喜之助の名前から。そして、この字は「自身が喜ぶ」「周囲を喜ばせる」という意味もある。喜之助が桐山組に託したのは、それぞれが職人として誇れる仕事を全うし、人々の生活を守り、喜びをもたらすものを作るということだ。
愛知県建築部土木技術者の時代
愛知県建築部土木技術者の時代
燐鉱事業概観
南洋拓殖株式会社の時代
南洋拓殖株式会社の時代

喜之助の思いを受け継ぎ
地元岡崎の発展のため
奮闘する二代目・卓二。

そんな喜之助の思いを受け継いだのは、鈴木卓二である。彼が社長に就いたのは、いわゆる地方創生の時代。私たちの住む岡崎も、高度経済成長期を経て社会基盤が整い、随分と便利なまちに生まれ変わった。何も起きないことを当たり前にして、人々を不安にさせない暮らしを守ってきたのは、卓二が手がけた着実な仕事の積み重ねであった。

地域社会と結びつきを深め
新たな価値を創造する
三代目・啓介。

そしてバブル崩壊。長い不況とデフレの時代に突入する。三代目・鈴木啓介が桐山組に入社した時には、建設業界は公共工事の発注方式が多様化し、まさに生き残りをかけた厳しい価格競争の時代を迎えていた。異業種出身の啓介は、喜之助にも認められた勘の良さを活かしてプロセスからすべてを見直し、桐山組再生に乗り出す。自分ひとりではできない仕事だからこそ、地域の人たちとの協力体制を重んじ、岡崎の地形を知り尽くし、頼りになる建設会社を目指した。
社長写真

建設は、郷土愛を育む仕事。
これからも、
えんの下の力持ちでありたい。

喜之助、卓二、啓介と続く桐山組の仕事は、つねに岡崎の歴史とともにあった。
それは、豊かな自然やまちに溶け込んだ、多くの人のふるさとの記憶である。「建設は、郷土愛を育む仕事」桐山組は、これからも喜び、喜ばせる仕事を通じて愛する岡崎の未来を支え続けていきます。
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